女性司祭に象徴的に現れる諸問題

聖公会は、その中にカトリック的伝統とプロテスタント的伝統が水と油のように入っているコップのような教会である。それぞれが自分の考えを主張し出せば、分裂は避けることが出来ない。イギリスの宗教改革の歴史を見れば一目瞭然であるが、右に左に振り子が大いに揺れ動くという経験をしたイギリス国教会は、教会生活の知恵として黙って祭壇の前に跪こうという態度を大切にするようになった。しかし、女性を司祭に按手しようという考えは、これまでの知恵では乗り越えることが出来ない。つまり、一致の象徴であった「祭壇」が分割されたからである。

この事は、取りも直さず、聖公会が苦悩する女性司祭問題は、聖公会だけの問題ではないということを意味する。女性司祭に賛成する人・反対する人がカトリック的伝統やプロテスタント的伝統、双方の流れの中にいるからであり、カトリック教会でも現状で多数決を真理決定の方法に採用するなら聖公会と同じ状態になるのは火を見るよりも明らかである。聖書ならびにサクラメントを大切にしてきた教会が、聖公会という先陣の轍を踏まないように願って、この女性司祭問題に現れる諸問題について気付いたことに触れておきたい。

 

<男=女>

まず現代思潮の趨勢としては男女平等・同権は当然のことであり、それに対して聖書は時代的背景からして男尊女卑であると批判されても仕方がない、ということを認めなければならない。しかしキリスト教信仰は、家父長制の時代的背景の中で成立した聖書にも関わらず、そこに時代や地域的制約を超える神の自己紹介を見出してきたのである。男女同権・平等について英語では、しばしばEquality の語が用いられる。要するにイコールである。男=女!?しかし男イコール女であろうか。男女同権は、政治学的概念であり、神学的概念ではない。少なくともキリスト教神学の概念ではないはずである。聖書では、神は世界を天と地の世界としてお造りになり、男を男として、女を女としてお造りになり、祝福しておられるからである。男女が神の祝福の下で一体となるのは、天と地の一体に見られる神の祝福を現すからである。人である限り、男か女のどちらかである。それが誰も否定できない命の秩序である。流行の「脱肉」の考えに抗して、本来の「受肉」の信仰に立ち戻らなければならない。

 

笑い話一つ

教会の命である礼拝で主イエスを現す司祭は、付属の幼稚園などで礼拝の後も「イエス様」としばしば呼ばれる。その事をカトリックの神父に話すと、「内では、髭を生やした聖職候補生が、子どもたちから『お髭のマリヤ様』と呼ばれていますよ」と大笑い。しかし「女のイエス様」が誕生しているのであり、磔刑のイエス像に乳房を付けた像も見受けられる。

 

日本を代表するフェミニスト上野千鶴子女史の証言フェミニズムにおける宗教の問題(「宗教の森」笠原芳光著、春秋社刊1993年11月25日第2刷 239〜243頁から抜粋)

笠原 宗教から遠くなると困るんですけど、フェミニズムの問題のなかで、これは上野さんは自分はよくわからないと謙遜におっしゃっているものに、フェミニズムにおける宗教の問題というのがあると思うんですよね。キリスト教にもフェミニズム神学というのがあって、神が男から女を作ったとか、神は父であるなどの聖書の矛盾を批判したりいろいろしているんですけど、その問題には、関心はおありになりますか。

上野 フェミニズム神学をやっていらっしゃる方がいることは知っています。どのようなことが議論されているかもおぼろげには知っています。だけど私にとってもっともよくわからないのは、キリスト教という巨大な欺瞞の体系のなかで改良闘争をやることにどういう意味があるのかということなんです。

笠原 ということは、キリスト教にたいしては改良改革ではなくて否定だと。

上野 否定というよりも、キリスト教から離れて仏教に行き、仏教からさらにとことん世俗的な学問を自分のフィールドにしようと決めたときに、私なりにケツの捲くり方をしたんだと思うんですよ。そのとき、あっち側に飛んじゃった人のことは知ったことではないと思い定めたと思うんですよ。

笠原 あっち側というのは宗教の世界ですね。つまりとことん世俗にこだわると。

上野 ″あっち側″で女が神父になろうが、あるいはフェミニスト神学というのが出てこようが、なんでそんな改良闘争が成り立つのかよくわからない。彼女たちは何を望んでいるんでしょう。なんでキリスト教そのものから降りちゃわないんでしょう。

笠原 彼女たちは徹底していないと思います。私なんかは宗教の改良闘争からはじめて宗教の止揚とか教義や教団の解体というかたちで宗教を考えているんです。フェミニスト神学というのはぽくも詳しくは知らないんだけど、たとえば「聖書」の「創世記」のはじめに、二つ話があるわけですよ。男と女を造る二つの話があって、一章のほうは「神は御自分にかたどって人を創造された」、そして「男と女に創造された」(27節)と書いてあるんです。そうなると神も男と女ではないか。ところが二章のほうは資料がちがうわけですね。

祭司資料というのが一章のほうでヤハウェ資料というのが二章。じつは資料としてはこちらのほうが祭司資料より古いんです。それはともかくとして、二章のほうはご存知のように神はまず人間を造ってそしてそれに助け手、パートナーとして男の肋骨から女を造ったということがありましてね、つまり男が造られて、その後から女が造られた(6〜23節)。ところが1章の記事だとまったく同時に男女が造られたとなっているわけですよ。ところがその後キリスト教はなぜかその男から女が造られたという、これは時代、社会背景があると思うんですけど、そちらのほうばかり説いてますね。

〜 中 略 〜

 パウロにたいしての批判というのはフェミニズムの神学にもあるんですが、ぼくは最初の一章の問題のほうが重要だと思います。つまり、神が人間を造ってそれを自らの形に似せたということは、神が男女であったということになるだろう。だから男女神とか父母神とかいう思想がありまして、それがグノーシスの思想のなかにあって、それが日本では新井奥邃という幕末から大正まで生きた「神は父母なり」といった唯一の人物のなかにもある。キリスト教のなかでときどきそういう異端が出てくるんですけど、もとはグノーシスだと思うんですよね。そういったところまで踏み込んでやっている人というのは少ないわけですよ。ですから根本的にキリスト教フェミニズムというのはもうキリスト教解体というか、キリスト教を否定するかたちでしか神というもののイメージをかえることはできないんだろうと思うんです。

上野 いまフェミニスト神学をちゃんとやれば、現存の公認の教義体系からは排除されるほかなくて、教会のうちにとどまることは不可能ですね。

笠原 不可能ですね。キリスト教全体を根本から考え直していかないと。

〜 後 略 〜

 

<聖書を裏切る教会>

「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ 22:15)というイエス・キリストの言葉は、注目に値する。子なる神が「わたしは切に願っていた」と言っておられるのである。そして新しい契約を制定し、<男である使徒たち>に「これを行え」と命じられたのである。聖ルカは、わざわざ「使徒たちに言われた」と記している。この記事を男尊女卑の時代的制約を受けているものと考えるのは自由であるが、聖ルカが上述のように報告しているのは否定しようのない事実である。

また一時「ナザレの大工の息子イエス」と「キリスト」を分離するという考えが流行った。イエスをキリストにしたのは聖パウロを筆頭に弟子たちであるという考えである。そして教会が作り上げたイエスではなく、ありのままのイエス(史的イエス)を求める作業が行われてきた。

その際、しばしば「イエスは教会を造ろうとは思っていなかった」という考えが主張されてきた。女性司祭実現を目指すある司祭は、説教で、この考えを披露し、社会悪と戦うことを説いた。すると、礼拝後、一人の信徒が静かに「先生は、なぜ、聖職に留まっておられるのですか」と尋ねた。この令聞ある信徒は、聖マタイの「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(16章18節)の言葉を覚えていたのである。また使徒の後継者が主教であり、主教の代理が司祭であるという洗礼準備の時の教えを大切にしていたのである。

教会は「地上の天」である。天を見失い、地にのみ目を注ぐなら、地しか見えず、地が自分を閉じこめる獄となる。その閉じられた地獄を祝福された天と地の世界に回復するためにイエスは来られたのであり、イエスは彼を通して天を見ることが出来る天窓である。イエスをキリストと信じる者には、イエスが天そのものである。

<史的イエス>を求める運動において大前提となっているのが、非神話化論である。誤解を恐れず簡明に言えば、天・地・黄泉の三層の世界が神話の世界であるが、現代は科学技術の世界であり、原因結果の連鎖によって成り立つ<地>しかないという考えである。当然、上から超越的に地に介入して起こる奇跡などは否定される。この考えは論理としては成立するかも知れないが、誰もが半信半疑となる。この論理の落とし穴を逃れるヒントは、この考えが天と空を混同して展開されている誤った考えであると象徴的に言えば十分であろう。

聖書を否定あるいは曲解しなければ女性司祭を認めることは出来ないであろう。

 

<神の国の到来か建設か>

聖マタイの同じ章に「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」(28節)という主イエスの言葉がある。「その国」とは教会のことであるが、神の国という理解も成り立つ。

日本聖公会管区やその委員会からの文書にしばしば「神の国建設」という言葉が見受けられたことがある。思い上がりも甚だしい、おかしな言葉遣いである。人間が努力して理想的な社会を建設しても、それは人間の国であり神の国ではない。その点カトリック新聞では「神の国の到来のため」という文言を用い、神学的に妥当である。

神の国とは神の御心が行われているところであり、神の御心を行う人と共にあるのであり、イエス=キリストと共に神の国は到来しているのであり、キリストと共に生きる人と共にある。

 

<福音の律法化>

福音とは読んで字の如く良い知らせ(グッド・ニュース)であるはずなのに、律法(法律)の様に受け止められがちである。女性を司祭に按手するかどうかの議論の際に、「聖書では禁止されていないから女性を司祭に按手しても良い」ということがしばしば主張された。

歴史に学ばない浅薄な考えである。宗教改革に対する反省からトレント会議では、サクラメントに関して「キリストがせよと言っておられないことはしない」と決議している。聖書の言葉を律法的に受け取るのは西方教会の宿命かも知れないが、「禁止されてないからしても良い」という法律の抜け穴を探すような姑息な方法で、自己の欲望を満たそうとする考え方が、信仰をゆがめ宗教改革となったのではなかったのか。

男女平等の時代にあって女性を司祭に按手しようとする考えは、一見正しいが、悪魔でも人を欺くために良いことをするのであり、その事は歴史上の戦争への突入の過程を見れば明らかであろう。律法の行いによっては救われないと言うのはキリスト教の根本原理であるが、良い行いを<する>を強調する考えからは、<平和>の実現は困難である。むしろ教会は、聖餐式においてキリスト者がキリスト者に、教会が教会に<なる>ことを大切にしてきたのである。

 

<聖職は専従組合員(能力のある者がなる)>

日本聖公会の初代主教ウィリアムス監督と言えば、「道を伝えて、己を伝えず」の言葉が有名であり、聖職だけでなく、全キリスト者の模範とされるのは、主の到来に備える洗礼者聖ヨハネの道である。ヨハネの福音書3章22節以下の記事によれば、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、公生涯に入り、神の国の到来を告げると、人々がイエスのもとに集まる。そこで洗礼者の弟子たちは、恐らく妬んだのであろう、その事を洗礼者に告げる。すると洗礼者は次のように言う。

「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。(ヨハネ3:27〜30)

それ故、集められたキリスト者の「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェ 1:23)

ところが、洗礼者の最後の言葉やエフェソ書の言葉を否定するかのように最近、ある教区では主教選挙を立候補制で行うようである。キリストではなく、自分を、自分の考えを主張し、売り込むのである。そういう状況を主イエスは見通しておられたのであろうか、「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」(ヨハ 6:70)と言われ、繰り返し「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハ 15:16)と言っておられる。

しかし、聖書を神の言葉ではなく、古文書の一つと考える現代思潮に屈した人々は、いわゆる良い行いによって自分を売り込まなければ、自分の存在理由を見出せないのであろう。それ故、どこかに問題がないかとゴミ箱をあさるように問題を探し回る。まるで良い行いの強迫観念にとらわれているようである。

C・S・ルイスは、「キリスト教の世界」(大明堂)で、「我々の状況が絶望的であると認識したときにはじめて、キリスト教徒の話していることが判りはじめるのです」(38頁)と言う。この本は全ての人にお勧めしたい。「自分が破産状態にあるという事実を発見するまでは、神と正しい関係に入ることはできません。」(同書 137頁)「・・・生命というものは自分が作ったものではなくて、われわれがほかの人から得たものなのです。同様に、、キリスト者も、与えられたキリストの生命を失ってしまうこともできるのであり、また、それを保つように努力しなければならないのです」(66頁)。

信仰は伝えられたものを伝えていく事。しかし、どうだろう。サクラメントは多数決で定められたものではなく、命の源である神によって定められたものと教会は証しして来たのに、聖職に関しては多数決で決められてしまった。命の源である神を忘れた人間の倣慢さではないだろうか。それは、教会の性質そのものに関わる事柄である。聖公会をプロテスタントと考え、聖職位を勤務評定可能な機能の問題と考えるならば、それでも良いが、まともなプロテスタントの人々でさえ、サクラメントの回復を目指す今日この頃なのに・・・キリスト教信仰は、ヒューマニズム(人間中心主義)ではない。

キリスト教信仰の合理化を目指したプロテスタントの終わりが叫ばれて久しい。我々人間のちっぽけな頭で神様のみ言葉を、摂理を管理しょうとし、サクラメントを不合理なものとして切り捨てて来たのだから、当然であろう。しかし、我々も、サクラメントを受け継いで来たにしても、せいぜい象徴や儀式程度にしか理解して来なかったのではないだろうか。サクラメントに「神の顕現」を見て来ただろうか。伝道とは主のみ業の証人になる事と思うが、まず、私達一人一人が主の愛のみ手に触れ、喜びに満たされなければ、何も伝わらない。教会が伝えてきたものをハッキリと理解し、味わうことが必要である。